なぜレシフェだったのか(1)2014/03/09 23:43

恋に狂いて―愛護の若
今日は横浜ボートシアターの『恋に狂いてー愛護の若』を観た。急に長谷寺に行きたくなり急きょ新幹線とホテルを予約してしまった。
今日のタイトルの「なぜレシフェだったのか」とどんな関係があるのか。1年近くいたハイチの次の行き先をブラジルのレシフェにした理由については、単純と言えば単純、複雑と言えば複雑なのだが、一つだけではないのでおいおいと書きたいが、「愛護の若」とも関連がないとも言えない。もともとフィールドワーカーになるなどということは全く考えていなかった自分が、ハイチに行ってみようという気になったのは、その頃の自分に最も影響力のあった知人、K氏との付き合いのなかからであった。そのころのK氏との会話のなかでよく話題になったのは説教節とか丹録本についてであった。その後、K氏は日本文化研究へと深く関与するようになるのであるが、私は逆に同じ関心を、ハイチとハイチの延長上にある地域へと向けるようになったのである。
 レシフェには、口承の語り(=説教節)と民衆本(=丹録本)が生きた形で残っていると教えてくださった方がいて、早速出かけて行ったわけである。
 「愛護の若」を観ながらふと思い出したことである。

北のライオン2014/03/08 21:29

北のライオン=レシフェ
「北のライオン」はレシフェの愛称であり、市章にもなっている。
レシフェ出身のミュージシャン、レニーニは、「北のライオン」という歌をつくったが、この歌はレシフェという都市の基層文化のすべてを語っている。歌詞の冒頭で述べているように、比喩的な意味ではなく、意図されたものである。

Leão do Norte
Lenine
Sou o coração do folclore nordestino
Eu sou Mateus e Bastião do Boi Bumbá
Sou um boneco do Mestre Vitalino
Dançando uma ciranda em Itamaracá
Eu sou um verso de Carlos Pena Filho
Num frevo de Capiba
Ao som da orquestra armorial
Sou Capibaribe
Num livro de João Cabral
Sou mamulengo de São Bento do Una
Vindo num baque solto de um Maracatu
Eu sou um auto de Ariano Suassuna
No meio da Feira de Caruaru
Sou Frei Caneca do Pastoril do Faceta
Levando a flor da lira
Pra Nova Jerusalém
Sou Luis Gonzaga
Eu sou do mangue também
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Sou Macambira de Joaquim Cardoso
Banda de Pife no meio do Canavial
Na noite dos tambores silenciosos
Sou a calunga revelando o Carnaval
Sou a folia que desce lá de Olinda
O homem da meia-noite puxando esse cordão
Sou jangadeiro na festa de Jaboatão
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Eu sou mameluco, sou de Casa Forte
Sou de Pernambuco, sou o Leão do Norte
Composição: Lenine e Paulo César Pinheiro

ポルトープランスからレシフェへ2014/03/08 21:00

定宿だったホテル・サンブラ―
4年以上不在でした。再開したいと思います。ポルトープランスは横浜に生まれ育った自分にとって再生の場所でした。しかしそこから出発して目指したのブラジル北東部のレシフェでした。ほど四半世紀のあいだ、毎年夏休みになるとそれ以外の時間では抑えられていた自分を解き放っていたのだと思います。ところがここ数年はそのことさえ忘れていました。これから始まる4年間に向けてかつての心を甦らせようと思います。さてどうなるやら。

Jean-Claude Castera、カステラさんのこと2010/08/31 22:11

若き日(少年時代?)のカステラさん
 カステラさんは、ペンションの女主人の知り合いで偶然に知り合った友人で、第一印象は「危ない人」であった。実際にそうであったかもしれない。職業は画家で、少なくとも私とも交際に局面では危険なところはなかった。母親の家(ジンジャーブレッド建築)、彼が絵を教えているブルジョワのオバサマたち、美しい従姉妹たち、瀟洒なレストランでの画家、デザイナー、文筆家たち、プライベートビーチ付きの別荘など、(代理大使であった辻野夫妻とともに)ハイチの上流社会を観察する機会を与えてくれた人である。しかし画家としては比較的早く注目されたにもかかわらず成功しなかったと思われる。Wikipediaにも次のような記述しかない。 Jean-Claude Castera (born 1939) is a Haitian painter. Born in Pétionville, a wealthy suburb of Port-au-Prince, Castera was educated in San Juan, Puerto Rico. He typically paints abstract scenes and women.  浪費家であったらしいが、知り合った当時すでに経済的に苦労していた様子だった。そのためか帰国までの短い交際期間に、自分の持っていたものの中からいろいろなものをくれようとした。調査に行っても本以外は必要なものしか持って帰らない習癖で、ハイチからも先述の絵画と彫像、それぞれ1点、小箱、ヴォドゥの旗、数枚しか自分は持って帰らなかったが、カステラさんからもらったものは数点ある。次回からそのうちの2点ばかりを紹介したい。今回は若き日(少年時代?)のカステラさんの写真を載せる。

ハイチの小箱2010/08/08 00:44

  ハイチのお土産品になっているラッカーなどで彩色された箱です。 水色の地に花の模様の箱は最初の滞在の時に買った第1号です。地震で倒壊したエピスコパル教会の庭で買ったように思います。黒の地に緑色の葉っぱの模様の箱は何度目かの滞在の際に買ったものです。友人や家族へのお土産としてたくさん買いましたが今はこれら二つしか手元に残っていません。前者はお土産品としてまだ作られ始めたばかりのもののためでしょうか、事務用の箱に彩色したもので内部の仕上げもされていない素朴なものですが、筆致や彩色に勢いがあり最も好きなものです。黒地の箱は絵柄が洗練されていて渋い味わいがあって日本人好みです。残念ながら大事にしていなかったので少々痛んでいます。プリミティブ絵画と同様に外国人の指導の手が入ってと思いますが、ハイチ人の感性の良い側面が引き出された土産品だと思います。

余滴(2):ヴォドゥの死者儀礼2010/01/27 22:58

ヴォドゥの聖母子像
  先に述べたように、ヴォドゥは、一つの宗教集団ではなく、個々の宗教的指導者が主催する小規模なグループによる宗教的実践であるから、その教義も儀礼も個々のグループによって異なっている。   ヴォドゥ研究の古典的著作『ハイチのヴォドゥ』のなかでA・メトロ-も、同様の指摘をしたうえで、自分が聞き書きしたヴォドゥの死者儀礼についての概要を書き残している(英訳pp.243-265).。   ヴォドゥ教徒(必ずしも教徒でなくとも)が死ぬとまず行われるのが、亡くなった信者が長い修行の末につくりあげた「神的な霊」(loa)とj身体の間の絆を、ヴォドゥの聖職者であるウンガン(hungan)が切り離す「デスーナン」(déssunin)と呼ばれる儀礼である。その後ウンガンは、死者の体の一部を小さな壺に納めるが、これは死者自身の霊魂を意味する。続いて遺体は、芳香性の薬草の煎じ液で洗浄され、鼻や耳の穴に綿を詰めるなどして、死者の尊厳を損なわないようきれいに整えられる。そうした状態で死者は友人や親族とお別れをするのである。  通夜は、アフリカの伝統で、あたかもパーティのように賑やかに、歌いかつ飲み、悪口も称賛も含め死者を悼むおしゃべりをし、そしてあらゆる種類のゲームをして過ごす。埋葬の列は夜明け前に出発し、墓地に向かう道中、埋葬の儀礼の取り仕切り役である「ペール・サヴァンウヌ」の家に立ち寄る。埋葬はほぼカトリックの儀礼に則って行われる。  本来ならば、こうした手順で手厚く埋葬されるべき遺体の尊厳が、非常時とはいえ、蔑ろにされることは、誰にとっての悲しむべきことであろう。

余滴(1):地震と宗教2010/01/26 22:54

荒井コレクションより(1):ハイチの母子像
 インターネット上のハイチ大地震に関する膨大な数のニュースのなかに「ハイチのブードゥー司祭、死者への敬意を要求する」というロイター電の記事があった(Taranaki Daily News  2010/01/28)。Max Beauvoirというヴォドゥの聖職者が、5万人に上る地震の被害者の遺体をまとめて集合墓地に埋葬したことについてプレヴァル大統領に抗議をしたというニュースである。  Max Beauvoir氏は、今回の地震の震源地に近いMarianiに1974年、ヴォドゥの集会所Péristyle de Marianiを創設、1996年にはハイチ人移民が増加しているアメリカ合衆国支部としてThe Temple of Yehwe を設立、2005年には「ハイチ・ヴォドゥ教徒全国連合」(Fédération Nationale des Vodouisants Haïtiens)を組織している、野心的なヴォドゥのリーダーの一人である。1986年にデュバリエ独裁体制が崩壊した直後、ヴォドゥを支持したデュバリエに対する反動としてヴォドゥ教徒に対する暴力や集会場の焼き打ちなどヴォドゥに対する激しい弾圧が行われた。現在ではヴォドゥは憲法において一つの宗教として認められ、いくつかのヴォドゥ再建運動が現れた。その代表がZantrayであるが、Max Beauvoirが主催する組織もそうしたもののうちの一つにすぎない。ヴォドゥは、アメリカ大陸の他地域のアフロアメリカン宗教と同様に、一つの宗教集団ではなく、個々の宗教的指導者が主催する小規模なグループの総称である。それゆえMax Beauvoirの政治的立場については筆者はまだ確定的な評価をもっていないが、地震の犠牲者たちの鎮魂という意味で、その意見には傾聴すべきところがあると思う。

ポルトープランスの思い出(3):新旧カテドラル2010/01/25 23:24

新旧カテドラル
  これまで述べてきたように、ハイチ、ポルトープランスのでの生活は退屈する暇など全くない毎日の連続であった。細かなエピソードについてはおいおいと語っていきたいが、大地震と関連した話題に戻ろう。   地震のニュースとして送られてくる映像の中で大きな衝撃を受けた映像の一つに、前面だけを残して後はすっかり倒壊したカテドラルの写真があった。というのはポルト^プランスの大聖堂の悲劇は、ここ30年の間において2度目のことなのである。掲載した写真は、上述のハイチのInstitut Francaisが1946年から刊行している"Conjoction"という雑誌の特集号(Nos.188-189. Special:Ancienne Cathedrale de Port-au-Prince ISPAN / ICOMOS-Haiti)からの借用であるが、新旧カテドラルが仲良く一つの写真に収まっている。この特集号はもともと旧カテドラルの修復のために世界の建築遺産の保護を目的とする国際機関であるICOMOSのハイチ国内委員会が行った調査報告書を兼ねていた。ところがこの特集号が印刷中の1991年1月7日、何者かの放った火によって灰燼に化してしまったのである。そして2010年の1月12日、ハイチ人は新カテドラルもまた失ってしまったのである。

ポルトープランスの思い出(2):Pension La Gaite2010/01/25 22:31

Champ-de-Mars の観客席
 Pension La Gaite は Champs de Mars に接する Rue Capois に面して立つ Hotel Le Plaza の横を入った Avenue Ducoste No.5 にある下宿屋兼安宿で、1階は年金生活の年寄り、が数人、2階は大家の家族と2人のOL、小学校教員、家族と離れてフランスの大学への学位論文を執筆中の内務省の役人、彼らすべて肌の黒いハイチ人で、それにフランス人ビジネスマン、さらに日本人が加わったのであった。   Champs de Mars は今回の地震で倒壊した大統領府にも接する大きな公園で、かき氷やピスタシュ・砂糖黍売りの商人が常駐し、子供ばかりでなくドミノなどに打ち興ずる大人たちにとっても憩いの場であり、特に日曜日には、公園の中心にある野外音楽堂でいろいろなジャンルの音楽が演奏され、教会帰りのドレスアップした姿でのそぞろ歩きの人々でいっそうの賑わいを示していた。  Rue Capois のChamps de Mars に接する もっとも新しい映画館 Triomphe、Hotel Le Plaza 、イスパノ・アメリカ文化センター、 Rex 劇場、Park Hotel,、フランス大使館、ハイチ美術館のほか、レストラン、薬局、お洒落なドラッグストアなどが立ち並び、商業地区ではないが都心に近い集客地区であった。  ハイチ滞在の主目的であった民族学部の建物も Champs de Mars の反対側にあったし、Rex劇場では当時スターだったLanguichatteの軽演劇や映画『マルチニックの少年』を観たり、アメリカ合衆国によるJ.S.Alexezに関する講演で質問するハイチ人著作家 Roger gaillard の姿を見たのもイスパノ・アメリカ文化センターだった。

ポルトープランスの思い出(1)2010/01/25 21:25

クレオール語の教科書:You can learn creole
  ポルトープランスで最初に宿泊したのは海岸に近いHotel Beau Rivage である。到着したのは午後の3時ごろ、とりあえずシャワーを浴びて仮眠をとったつもりであった。ところが長旅の疲れのために、町で遊んだ帰ってきた観光客の嬌声で目が覚めたとき、すでに真夜中を過ぎていた。夕食を食べそびれたなと思いつつ再び眠りに落ち、気がついたときは朝の7時であった。前日は金曜日で夕食はクレオール料理のビュッフェだったのに。  それから月曜日までの間の出来事はどのような順番で起きたか、よく覚えていない。二つの流れの出来事の前後関係がはっきりしないのである。月曜日にはそれから1年弱の宿となるAvenue Ducoste No,5の Pension La Gaiteで昼御飯を食べているのであるが、ここは紹介状をもって訪ねたTOYOTAのハイチ代理店社長が選んでくれた宿であった。日曜を挟んでいたので土曜日に訪ねて月曜日に案内してもらったのか、それとも土曜日に訪ね、日曜日に別の人がホテルに迎えに来て、その晩にはもうPensionに落ち着いていたのか記憶が確かでないである。おそらく後者であろう。というのは宿探しの間に、ハイチのInstitut Francaisの図書室を訪ね、そこで教わったLibraire Caravele と Libraire Henri Deschamp で何冊かの本と地図・クレオール語の教科書を買っているのだ。後者は本屋というより教科書や公的文書を刊行している出版社である。前者は小さな本屋でありながら良質な書店で、そのうちの何割かは現在再版されているが、長い間絶版となっているハイチ人著者による古典的著作を入手することができた。